連載を終えて

      励まし、励まされて

 サブタイトルを「教えの場より」として連載を始めるには、きっかけとなる事柄があった。「子どもが守られていない」。家庭でも学校でも、そして社会でも。それを常々感じていたが、私がひどく心を痛めたことがあった。書かねばならない、と感じた。
 「人間のクズ」、それを日常的に生徒に浴びせる教師がいた。私が勤めていた高校の生徒は、勉強の仕方やマナーがどこか身に付いていない子が多かった。必然のように、先生や生徒とのトラブルが起こる。「お前は人間のクズだ」「腐っている」。その教師は日常的に生徒に言うのだった。「指導」と称して。「退学させる」という脅しの下に。人には、何があっても「心に封印」しなくてはならない言葉がある。まして人を導く立場の者であれば、なおさらのこと。「その言葉をためらいなく使う」ということは、彼の心の中に「そういう意識がある」ということだ。人は、間違いを犯しやすい生きものだ。未熟な年齢であればあるほど。間違いを犯したから「人間のクズ」なのだろうか。どんな人間でも、人としての尊厳は守られなければならない。
 「私が悪いのは知っている。でも人間のクズじゃない」「子どもが傷ついている」「ばかにしたり、さげすんだりしないでほしい」。生徒からも親からも、抗議の声を聞いた。そんな時、学校はどのように対処するのだろう。「生徒への愛情が強くて、つい」「熱心さのあまり」。そんな形で終わっているのではないだろうか。愛情が強ければ、そのような言葉は意識の中に浮かびもしないだろう。一生、その言葉を使わずに生きる人は大勢いる。使う人は、何回も使い、その度に傷つく者たちがいるのだ。
 しかし私たちの中にも、彼のような「冷ややかで残酷」な感覚が全くないと言えるだろうか。勉強ができる子。素直な子。家のためになる子。学校の名誉や進学実績に役立つ子。そういうものだけをよしとする心の傾きは、皆無なのか。子どもへの軽蔑や虐待は、そんな思いに巣くうのではないか。そのような心の煩悶(もん)が、私にこのコラムを書かせたのだ。せめて教えの場にある者は、常に自分に問う、ということがなければならないだろう。
 多くの読者から手紙やメール、ファクスをいただいた。誰もがこの時代を受け入れ難く思っていた。そして、あきらめるのではなく自分のできることを静かに為(な)していた。私はいつもそこに、人としての行為の可能性を感じ、いつもそこに心打たれた。同じような目線で生きている人たちがいる。それは私への大きな励ましだった。
 ある年配の女性。「心が重くて死にたいと思っていたが、このコラムを読み、生きる希望を持ちました」。語りながら、彼女は何回も、涙をぬぐった。私も泣いた。「励まされる」という読者の多くの声を聞いてきたが、励まされるのは、私自身であると思えた。
 さようなら。ありがとう。私の見知らぬ、でも限りなくそばにいてくださると感じる多くの読者に、深く深く感謝します。

2003年5月3日掲載 <61> 終わり  

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