生きている涙

  『死』と『生』をみつめて

 人は、涙なしに生きられない生き物だ。生徒の作文に涙にまつわる話があった。私の主宰する文章教室でのこと。作文の主は、看護師をしながらさらに保健師、助産師めざして励んでいる若い女性だ。大学入試のための小論文を学ぶ目的で、私のもとへ通って来る。
 「悲しさの体験を文字に置き換えること」。それがその日の授業内容だった。看護師という職業はいつも「生」と「死」のはざまに身を置いている。彼女も仕事柄、直接的で暴力的な「人の死」に、日常的に遭遇する。
 偶然にも、赴任した最初の日に彼女は「他人の死」を経験してしまう。自分が想像していたことをはるかに超えた出来事だった。「会ったばかりのその人は、死んでいた」。彼女の文章はこのように始まっている。「死後の処置をするよう主任から言われ、教科書でしか知らなかった死後処置そして人が死ぬということを、仕事として初めて体験した。怖くて怖くて泣いた。その場に立っていることが精一杯だった。面識があったわけでも、特別な思い入れがあったわけでもない。それでも私は、その人の人生を想い泣いた。とんでもなく重い職業に就いてしまったことを実感した」。その日のうちに、彼女は退職願いを書く。
 それから十年。彼女はもう、泣きながら死後の処置をすることはなくなった。人は誰でも、死ぬ。どんなに生きたいと思っても人は死ぬのだ。それを実感した時初めて、生きていることの大切さがわかる。仕事を通して彼女が学んだことは、そのことだった。「仕事上、泣くわけにいかない時がある。人が死んで、その相手に無関心になったその時は、私は仕事をやめようと思っている」と彼女はつづる。
 そう。泣かなくなったのは、悲しみや恐れを失ったからではない。私には手に取るようにわかる。涙はほおを伝わらないが、心の中ではもっと大きな悲しみの涙が、静かに流れていることを。そんな見えない涙こそ、人を気高く崇高にするのだとさえ思える。
 現代の高校生はあまり泣かない。深刻で悲しい話をしていても、他人事のように笑っていたりする。人の情が伝わりにくくなっているのがわかる。
 あるいは、今の生徒はすぐ泣く。さまざまな能力についての意見やアドバイスをすると、いとも簡単に涙するのだ。くやしいとか、恥ずかしいという感覚よりも「怒られること」「忠告されること」自体に抵抗が生まれるようだ。そこに人間としての弱さや希薄さを感じてならない。
 つらい時に思い切り泣くと、心が軽くなる。私の生徒である看護師が「死の恐れ」から学んだ涙の意味。うれしくて、楽しくて、ふと流れてしまう涙。そんな「涙の贈り物」を知らない子どもたちは、不幸でならない。
 十年前の退職願い。それは今も彼女の心の奥深くしまわれている。

2003年2月22日掲載 <52>  

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