親捨て、子捨て

      思い、その永遠のイメージ

 浜松映画祭で、木下恵介監督の「楢山節考」を見た。信濃に残る「姨捨(うばすて)伝説」を深沢七郎が小説にし、それを映像にしたものだ。私はその映画を二度見た。昔はただ、人が生きることの悲しさや残酷さに打たれた。三十年を経た今、私の抱いた感慨はまた別のものになっている。過酷さの中で静かに光る「人の美しさ」を、感じるのだ。人はここまで無私になれるのか、と。架空の物語であっても、それはすがすがしい体験として私の中に残った。と同時に、私は今でも「姨捨」は別な形である、と感じていた。
 高校教師をしていたころ、親から見放された幾人もの生徒に触れた。彼らは一様に、さまざまな問題を起こしていた。そのために私たち教師は家庭にコンタクトをとる。電話の応対から見える世界は、どこか乾いて荒涼としていた。連絡を入れればすぐにやって来るのが親の常識、という考えはいつから崩れ出したのか。「仕事があるから」「三日後だったら良い」「先生から話してください。親の言うことはききませんから」。そんな言葉を聞きながら、親と子のきずなが、他人の関係のようになってしまっている、と感じた。
 「楢山節考」は、ぎりぎりに生きている人々が、生き延びるためにする親捨ての話だ。田中絹代演じる「おりん」が、いつまでも衰えない食欲を呪うように、自分の歯を石臼で折るシーンがある。そこにはこれから生きてゆく者たちへの思いが、強く託されている。歯が抜けるということを、年寄りの誇りのように「おりん」は感じていた。自分が食べなければ、誰かが生きられる。その喜び。「自己犠牲」とか「献身」に付きまといがちな甘いヒューマニズムとはほど遠い人の生き方が、そこにはある。「おりん」は、血にぬれた唇に笑みをたたえて、「歯が抜けた」ことを村人たちに告げる。悲しみを通り越したところにある人の思いの美しさに、心が洗われるシーンだ。
 「プチ家出」という言葉が、近ごろ使われる。私はその言葉に、どうしても大人の欺瞞を感じてならない。「家を出る。家族を捨てる。一人で生きてゆく」。家出とはそういうことだ。だがそんな過酷な本来の「家出」をどこか水増しして、問題に真剣に向き合うことをしない現実が、そこには見え隠れする。将来、「親捨て、子捨て」が何のためらいもなく起こるような感じを、「プチ家出」の言葉から私は受けるのだ。
 「おりん」は、どんなに理不尽であっても、村の掟を守る。そのように生きることで「安楽な死」を山の神から授かると信じて。親を捨てる悲しみに耐え迷っている子と母の上に、雪が舞い落ちる。雪は「安楽な死」を意味する。老いた者が、飢えの苦しみなく死ねることなのだ。「おっかあ、雪が降ってきた。良かったな」。そんなせりふを息子が言う。降りしきる雪の中、母親は痩せた手で、「早く気をつけて帰れ」のしぐさをする。私はそのシーンで涙した。捨てることの中に見える親子のきずなの確かさが、私を白く染めた。
 これから幾度も、私は雪を見るだろう。そしてその度に、雪は「親と子」の永遠のイメ−ジを私に告げるだろう。

2003年1月25日掲載 <49>  

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