それぞれの、思い

    今を生きる喜びを  

 「お母さんを生き返らせて。お礼が言いたいから」。小学三年の少女の願いだった。磐田郡福田町から講演依頼があった。その資料の中に、『福田の子どもたちの三つの願い』というアンケートをまとめたものがあった。子どもたちの多くの願いは家族への思いをしたためたものだった。「おばあちゃんのリウマチを治して欲しい」「母に楽をさせたい」など、自分をとりまく世界への心優しい思いがあった。その中で特に私の気持ちが釘付けになったのは、「お礼を言いたい」の言葉だった。幼くして母親を失った少女が「お母さんを生き返らせて」と願うだけではなく、「お礼を言いたい」と言っているのだ。
 私はその少女が『今を生きる』喜びを、その言葉に託していると感じた。まだ十歳足らずの子どもが、生きている喜びを、死んだ母親に「私を生んでくれて有り難う」と伝えようとしている。
 講演先の学校へ向かう車中、私はその町が醸し出すのどかさを満喫していた。時間がゆったりと流れているところだなと感じていた。そんな地域性からあの少女のような感性が育まれているのかもしれないと思った。その思いの半分は当たっているだろうが、私が感心したのは、学校を始め地域の人たちの『結び付き』への関心と、取り組みの姿だった。
 講演の始まる前。中学生の子どもを持つ母親たちが、交互に、自分の子どもの良いところを声に出して語る取り組みに触れた。悪いところはすぐ目につく。しかし美質はともすると見えにくいものだ。母親たちは懸命に子どもの良いところを探していた、笑いながら。終わってから「結構うちの子も良い子じゃん、って思いました」と感想を言っていた親もあった。目を凝らしさえすれば、誰にでも良いところはある。平凡であるが大切なものを、親たちはつかもうとしていた。
 情報の氾濫(はんらん)によって、人々に、教育や家族の在り方の『迷い』が生まれている。どうしたらベストなのか確信を持てない時代になった。福田町の取り組みを見聞しながら、親も子どもも、家族の誰れもが『その人のよいところを見る』ようにすれば『迷い』が自然に消えるのではないかと、楽観的に私には思えるのだった。
 「お母さんにお礼を言いたい」その願いは、きっと彼女の家族とそれを取り巻く人々の生き方の成果なのだ。
 黄金色に豊かに実った稲穂が、秋の澄んだ空気の中で輝いていた。ふと『故郷』という感慨が起こった。その『故郷』という思いに、私は生きる力を育むものを見たような気がした。

2002年12月28日掲載 <47>  

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