家が燃えても

 『形見』の重さ

 すべてを失っても、「命さえあれば」と誰でもが思う。その命を支えるもの、命を豊かに照らし、人として輝くためにある大切なものを知る機会があった。
 あるクラスの男子生徒の家が火災に遭った。ほとんど跡形もなく家は消えた。しばらくして、いつものように彼は通学してきた。白いTシャツとジーンズ姿が、「気のみ気のまま」の事故を物語っていた。思ったより元気な表情に私は少しほっとした。クラス仲間が励ましてくれたことを彼はうれしそうに語った。逆境の時、ちょっとした思いやりが人を救う。子どもたちの中にある「優しさ」を強く感じるのはこんな時だ。
 「家族が全員無事で良かったね」。私が慰めると、「ひとつだけすごく残念で悔しいことがある」と彼は言った。燃えてしまった『家族のアルバム』のことだった。その言葉に私は強く打たれた。彼の過去や家族の営みは私には想像できない。しかし『家族のアルバム』という言葉から、この生徒が家族と共に生きてきた時の重さと豊かさを思った。私も常日ごろ、何かあった時には『家族のアルバム』をまず持ち出そうと心に決めていた。
 「アルバムなんて。思い出は心の中にあればいい」。その話をある同僚にしたらそんな言葉が返ってきた。私は「そうね」と話を打ち切りながら、「ちょっと違うなあ」と心の隅で言っていた。『形見』。それは亡くなった人の思い出の品や残された言葉のこと。私たち人間はその『形見』を大切にする文化を持っている。残された物を時折見る。そして共にいた時に思いをはせる。懐かしさの中で、今ある自分を顧みることができるのだ。
 写真の歴史はそんなに古くはないが、「形見の文化」を端的に意識させてくれるものだ。『家族のアルバム』を紐(ひも)解くと、忘れていたことがあふれ出す。死んだ人も今生きている人も、生きてきた証拠として、そこにある。それは、自分が今ここで生きている確かなものを送ってくれるのだ。アルバムを見ると生きる希望が起こるのは、そんな理由だろう。私は彼が「家族のアルバム」を命の次に惜しんだことに触れて、彼の中にある「形見に思う心」が育っていることをうれしく感じた。そしてその思いが断たれずに、大きく成長し息づいてゆくことを願っていた。
 「父の道具箱」というアメリカの弁護士が書いたエッセーを読んだ。父への反抗や思いが丁寧に描かれている本。その中に、自宅が火事になる処(ところ)があった。息子も母親も真っ先に言い放ったことは、「『私たちのアルバム』が燃えてしまう!」その言葉だった。思い出は消えない。しかし消えてしまうように人は感じる。だから『形見』によって思いを残すのだ。その「思い出の文化」が「命と同じように大切」なのだと私はあらためて思う。今だからこそ。

2002年11月9日掲載 <42>  

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