不幸の理由(わけ)その2 

      静かなしっ責と愛情

 その生徒は、たいした理由もなく万引をしてしまった。だから悪かったという反省が起こらない。「罪悪感の喪失」と言ってもいい感覚が、多少なりとも今の生徒たちにはあるが、その生徒も自分が起こした問題をあまり重く受け止めていなかった。罪のリアリティーをわからせるのは難しい。だが周囲の大人たちが本気になって立ち向かう時、それは水が染みていくように子どもに伝わる。連絡すると、母親が顔色を変えてすぐに迎えに来た。青ざめた顔には言いしれない悲しみが漂っていた。子どもの顔を見るとたちまち涙があふれた。生徒はキョトンとしている。母親の心のひだが読みかねているようだった。「死になさい」と母親は言った。「私も行くから」。予想だにつかない母親の言葉に私は少し動揺した。だが、気持ちは洗われていた。「人様に対してこんな申し訳ないことをしたのだから、生きてはゆけない。だがあなた一人を行かせるのではない。私も一緒に死ぬから」と母親は言っているのだった。それは静かな静かなしっ責と愛情の表れだった。感動という言葉では思いが平明になるが、私がその時感じたものは、まさしく感動そのものだった。その親の物言いが、子どもに「罪悪感」を呼び戻したのだった。私は「この子はもう大丈夫。ちゃんと生きてゆける」と確実に思った。子どもが犯した問題を自分の問題として考える親がいれば、子どもたちは立ち直れる。親の、子に対する真摯(し)さが掛け値なくそこにはあった。
 古くから友人の警察官は「子どもを殴る親が減った代わりに、無関心や、子どもとの変な共犯関係を作る親が増えているのだよ。親が迎えに来て、事情を説明すると声を潜めるように『お前はばかだ。分からないようにすればいいのに』っていう親もあるんだからな」と話を続けた。「問題は子どもが起こすが、本当の問題の根っこはおれたち大人の方にあるのだろうな」。彼の分析に、私もうなずいていた。
 「もと先生のあんたには悪いけど、嫌なことがあった。問題を起こした高校生がどうしても親の名前や住所を言わない。気長に待つとやっと学校の名前を言った」。私は「先生に悪い」と前置きした彼の言葉を計りかねていた。「電話を掛けるとすぐに先生がやって来た。それも校長から教頭、生徒指導課長っていうやつから、学年主任に担任と、大勢でぞろぞろやって来た」。思い出したのか彼の目が笑っている。しかしその目はすぐに硬い表情に変わった。「来るのはありがたいが、誰もその子の方を見ようとしないし、声も掛けないのさ」。半分あきれ怒った口調で、「彼らはその子に興味が無く、どんな問題を起こしたか、学校の名誉ばかり気にしている。たった一人でも怒ったり『どうした』とこの子に声を掛けてくれって願ったよ。あんたには悪いけど学校すらこんな風に変わったのだ」。
 私はその少女が取調室の中でぽつんと孤独を抱いて、うずくまっている姿を想像していた。彼が言ったことは学校のすべてを語っているのではない。が、私は先生たちの視線が何を見ているのか、を恐れた。その視線の先は、子どもたちの「不幸の理由」を見ていないことだけは確かだ、と思ったのだ。

2002年11月2日掲載 <41>  

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