煙のゆくえ

    学校よりタバコ?

 「学校をとるかタバコをとるか」。ジョークではない本当の話だ。それが進学校での出来事だから、なおさら未成年者の喫煙の問題の深さを思った。
 「ちょっと、一服」。疲れた体や心を癒やす、と言われるタバコ。それはアルコールと同じように日本では合法的な嗜(し)好品だ。しかし成長期の子どもの体や心を心配してか、二十歳になるまでは、国の法律で止められている。世界の多くの国々がそうしているのは、同じ理由だろう。その苦肉の配慮が有効だった時は、果たしてあったのだろうか。かって私の同級生数人は、喫煙で停学などの厳しいお仕置きをされた。そのころは、そういうケースはごく稀(まれ)なことだった。現代。高校生の喫煙は、すこぶる増えている。中学生も。信じられないが小学生にも。昔先生にしかられた友人たちの多くは、「あの時代が懐かしい」などと青春のころの逸脱を懐かしんでいる。しかし現代を生きる子供たちは、喫煙のことを時の流れとともに懐かしく思い出すことがあるだろうか。
 問題を引き起こす子どもに対し、ドライとかウエットなどと人は良く例える。しかし今の子どもには、そのどちらにも例えられない感覚をいつも感じる。それを「虚(うつ)ろな感覚」と言ったら的確ではないだろうか。何かに、必死でなくても良いが関心や憧れを抱く「心晴れ」というものが稀薄なのだ。流行や身を飾るファッションには敏感だが、その敏感さの中にも「虚ろ」が見え隠れする。私はタバコを手放せない子どもたちの心に食い込んでいるのは、その「虚ろ」だと思えてならない。反抗や好奇心からタバコを吸う。決して良いとは言えないが、それはまだ許容出来るし、しかったり導いたりする可能性を感じる。しかしタバコを止(や)められない今の子どもは、タバコ依存症に近い。止めたくても止められないのだ。そして「学校を止めてタバコをとる」がだんだん常識になる時が来るように感じられてならない。
 私は生徒によく「喫煙の怖い弊害」を語った。がんや、赤ちゃんが未熟なまま生まれることなど。しかし語りながら、本当は子どもたちが抱え込んでいる「虚ろの感覚」をどうにかしない限り、タバコの問題は解決しないと感じていた。悔しいことに、その「虚ろ」は私たちの生き方から立ち上ってくる煙のように見えるのだった。
 「欲しいものは目の前にある。求めなくても与えられる」「ゆく道は親がセットする」「刺激を必要以上に消費社会がまき散らす」「勉強が遅れればもう人間ではない、そんな視線がどこにでもある」。批判として見れば、子どもにとって社会はそのように在る。
 限りなく子どもは「虚ろ」になるだろう。そして子どもたちが吸うタバコがくゆらせる煙のゆくえは、私たちの社会のゆくえをそのまま示しているのだ。

2002年8月3日掲載 <32>  

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