初  恋

      思春期の感覚 大切に

 「なんだか胸が、きゅんとして苦しい」。直樹が私に、心の在りようを告げた。彼はその思いがやって来る方を、呆然と見ていた。昨日まで、なにも感じていなかったのに。今日、突然のように、心の奥に芽生えたものがあったのだ。直樹はその芽生えに戸惑っていた。「いつも一緒に弁当食べたり、数学の問題を解いたりしていた」のが「今は、まっすぐ目を見ることもできない」のだ。
 「人を好きになるって、そんな風に突然やって来るのよ」。私は彼の中に生まれた『初恋』の感覚をほほえましく感じた。「でも、なんだかやたらに苦しいよ。息をするのも」。笑いながら彼は言った。その笑いと恥じらいの表情を祝福しながら、私は彼の心の中の青く硬い林檎(りんご)が微(かす)かに色づくのを見ていた。
 近ごろ、高校生の恋愛や性体験が語られる。大人の私でさえはばかられるような大胆な行動が指摘されている。恋愛の果ての殺人事件までがあった。嫉妬(しっと)や憎しみがあったとしても、好きだった相手を殺してしまうことに、私は驚きを禁じ得ない。まるで大人の世界の悪しきコピーを見ているようだ。これでいいとは決して思えない。
 今の子供たちに私は、社会によって『生き急がされている』という感じを持つ。その在り方は、私たちの社会の在り方そのものであることが、より私を苦しくさせる。テレビや雑誌、インターネットなどから子供が『性の世界』を簡単に知ることができる社会だ。知ることは悪くはないが、どこか子供たちの大切な感情を奪うようにある、と思えてならない。私が不安に駆り立てられるのは、思春期にしか味わえない『恋する心』が社会によって刈り取られ、奪われることからだ。防ぐ防波堤は、ないのか。
 私は生徒たちとの触れ合いの中で、『ゆっくり生きる』ことを伝えてきた。父兄にもチャンスがあると言い続けていた。『今だから知る思い』を大切にしたいためだ。
 ある親は、息子との「良い関係」を保つために、彼の女友達を泊めたりしていた。私はその対処の仕方に怒りを覚えた。子供に迎合することで得られるものはない。それよりも失うものの方がはるかに多いことを、言い過ぎと思ったが親に告げたこともある。
 私は直樹が持った、『苦しいような甘酸っぱい』感覚が彼の未来を明るくすると思う。彼のように人を好きになる感覚を知ってこそ、人間である喜びを味わえるのだから。人だけが持ち得る思い、それは大切にされねばならない。そして思春期でなくては分からない感覚の芽を、社会はつみとってはいけない、と私は思う。どんなに性のモラルが自由になったとしても。
 もう時代遅れと笑われるかも知れないが、直樹の言葉を思い出すと浮かんでくる詩の一節がある。「まだあげ染(そ)めし前髪の林檎のもとに見えしとき」。『初恋』を歌った藤村の詩は、今だからこそ心に響く。

2002年4月27日掲載 <24>  

メニューへ戻る