瞳は、見ている

      誰にもある“良さ”

 生徒たちにはかなわないな、と思う事がある。それは、生徒たちには絶対にうそがつけない、という事。同僚や大人の眼はごまかせても、彼らはたちまち看破してしまう。例えば、こちらが元気がない時。悩んでいる時。職員室では気付かれずに済むのに、教室ではどんなに「から元気」を出しても、だめだ。「先生、元気ないじゃん」「聞いてやるに」。こちらの悩みを聞いてくれるというのだ、生意気にも。思わず胸が熱くなる。
 生徒たちの直感力は、すごい。大人の判断は形や言葉で左右され、真実がつかまえにくい時があるが、子供たちは、在りのままとらえる。その眼は、まさに大人たちへの批評としてある。私はそれを恐れ、そこに無限に学ぶものがあることを知った。
 「あの先生自信満々だね。でもあの自信少し変だね。自分しか見ていない」とか「すぐ怒るけど、本当はすごく優しい」。漠然と私が同僚に感じているものを、生徒は正確に伝えてくれる。『襟を正す』というが、生徒の視線を思う時、いつもその言葉が浮かぶ。彼らの眼に映った自分の姿を考えると、自然に起こる感情だった。ごまかしの利かない世界なのだ。
 私は学校で「新任教育」を担当していた。公立高校の校長を退職された年上の先生とともに。先輩は大きな教えの道筋を説いていた。私はなるべく教育現場で日々起こる出来事や問題点を先生たちとともに考え、導くようにしていた。
 『視線を子供の方へ』。それが私の考えの中核を成していた。『しつけ』とか『学問』は、先生の生徒に対する『慈しみ』が土台にあってこそ成り立つと、教育に携わる者は誰もが言う。確かにそうだろう。しかしそのような言葉を読んだり聞いたりすると、どこかおざなりな空虚な言葉に思えてしまう。『慈しみ』を心の土台にした教育が、果たしてどれだけ行われているのか。絵空事に、その言葉がなってはいないか。
 だから私は、若い先生たちに『視線を子供の方へ』と執拗(しつよう)に話す。生徒の顔や後ろ姿、そして言葉の使い方から見えてくる世界がある。子供どうしのいざこざ。家庭での出来事。先生に対する不信。それらが『視線を子供の方へ』向けると見えてくるのだ。向けなければ何も見えず、生徒とのあつれきが起こるだけだと。「少しでも良いところがあったら褒めなさい」と私は言う。「でも形だけでは生徒はそれを信じないし尊敬されない」とも。
 細心に子供を見ることができれば、誰にも良いところがあるのに気付く。そこから出発すれば、大概の問題はクリアできるのだ。『慈しみ』は、そこから初めて芽生える。
 私はこの春、学園を去る。いろいろな思いが深くある。特に、生徒たちとともにいることが自分の心の安らぎだったと感じる。『ありがとう』とかかわったすべての生徒たちに言いたい。「あなたたちの瞳に映った、自分の未熟さや希望や失望を見ると、いつも励まされました」と。
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 筆者の中西美沙子先生は三月末で芥田学園高校を退職し、四月以降は執筆・講演活動などを通して教育コーディネーターとして活躍されます。

2002年3月30日掲載 <20>  

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