なつかしき音

      万人講の熱気の中で

 「いい音が風に吹き飛ばされ聞こえてくるんだ。まるですずらんやヘリオトロープのいいかおりさえする」。宮沢賢治のある童話の一節。このくだりを読むと、きまって私の心は安らぐ。においに例えられた音のイメージが、忘れかけていた懐かしい思いを私に知らせるのだ、いつも。
 そんな感覚に突然、遭遇した。雄踏町で行われている『万人講』を見た時だった。『万人講』は素人歌舞伎を上演する会だった。万人講、とは多くの人たちが何かをなすことを意味している。勤めている学園の後援団体会長が、『雄踏歌舞伎万人講』の会長で、彼のお誘いで私は会場に行くことになった。人波が舞台を囲んでいた。熱気とくつろぎが、観客を浸していた。お弁当やまんじゅう、団子が売られ、そこのおばさんもかつらをつけ、打ち掛けのような衣装を着ていた。手の届く華やぎがあった。幕が開くと、歓声があがった。見慣れた人たちが『役者』になって舞台にいた。大向こうから声があがる。友達や家族、隣のおじさんが一生懸命演じているのを励ますように。小さな子供も、高校生にも、役が与えられていた。祝儀があちこちから飛んだ。見る人も見られる人も一体となった『場』が生まれていた。
 私が子供のころは、隣近所が集まって運動会や町のお祭りを盛り上げた。炊き出しのおにぎりや、家ごとに持ってきた食べ物を分け合った思い出がある。「パン、パン」と開催を告げる花火の音が聞こえてくると、子供心にわくわくした。
 私は『万人講歌舞伎』にその懐かしい『共同体』を重ねていた。そして雄踏町の人たちが一度途絶えた『万人講』を復活させた意味を、自分なりにかみしめていた。久しぶりの、すがすがしい体験だった。私が賢治の言葉に感じていたものは、これだったのだと知った。
 『懐かしい共同体』と『学校』は、どこか似ている。大人が子供の良いことを褒め、悪いことを見るとしかる。その関係の中で子供は成長してゆく。『愛情』を土台にした共同体の中で、大きく包まれている安心が人を育てるのだ。しかしいつの間にか『学校』も、『共同体』も、その大切さを見失っていったように思える。『自由』が『勝手』にすり替わり、『学ぶ』ことが『受験がすべて』に置き換えられていった。そこに、今の子供たちの心の荒れの原因の一端があると、私には思えるのだ。
 『万人講歌舞伎』が私たち教師や、教えの場に示唆するものは多い。

2002年2月16日掲載 <14>  

メニューへ戻る