カマキリの赤ちゃん

      ささやかな情緒

 忘れられない瞬間を、自然が告げる時がある。文化祭の前日。209のHR展。準備をしていた生徒のひとりが、奇妙な声をあげた。その声には驚きと、率直な感動の響きがあった。
 カマキリの赤ちゃんがササの葉から、まさにこぼれ落ちようとしていた。七夕飾りに励んでいた生徒たちが、一斉に声の方をうかがった。「何だよ、これ?」。だれにもその正体が分からないのだ。「カマキリの赤ちゃんだ!」。ある生徒が叫んだ。鈴なりになって見ている生徒たちの声は、弾んでいた。泡のようになって逃げ惑うカマキリの子を、彼らはじっと見守っていた。「放してやろうよ」。だれかが言った。明浩が、大きな武骨な手にカマキリの赤ちゃんをそおっと乗せ、一匹ずつ、ベランダに放してやった。
 私たちは、いつでも自然とともにある、と思っている。しかし現代の生活の中でそれは忘れられていることが多い。どこにでもある自然すら、見ようとしなくなっている。多くの人はあらしや水害そして水不足など、自然がたけった時にしか、そこに意識を向けない。何もない平穏な時にこそ、「人は自然の中で生かされている」いきものだと、感じなければいけないのに。そう感じる時や場所を、私たちは失いつつある。
 大好きな先輩が入院していた。末期がんだった。つらい見舞いに、私は出掛けた。雑談していて、心にしみる彼女の言葉があった。「何だかしきりに思い出されることがあるのよ。つらいことやうれしかったことではなく、ささいなことなの。例えば、子供を背負い空襲の中を逃げた路地で見た、あかまんま(イヌタデ)の色や、子供のころに連れられて行った夜店のアセチレンガスのにおい、正月、羽根突きをしている妹の声。そんなたあいないものが思い出されるのよ」。その時私は、彼女の一生の一部を、『ささやかな情緒』が支えていたのを知った。もしかして何の意味もないと思われそうなことが、人の心に安らぎや生きる希望を与えていたのではないか、と。凛(りん)として、充実した彼女の顔がいつまでも心に残った。
 家庭でも、教育の場でも、私たちはそんな『ささやかな情緒』を見捨ててきたのではないか。カマキリの赤ちゃんの偶然の出現が、より友人の言葉を鮮明によみがえらせたのだった。
 後日。明浩に廊下で会った時、「あのカマキリの赤ちゃん、どうしたかな?」ときいた。「あの日、雨が降ったんだよな。ベランダに水たまりができて、あいつらみんなおぼれてた」。「そう」と相づちをうちながら、私はこの生徒もいつかこの出来事を思い出すのだろう、と思った。『ちいさな情緒』とともに。

2001年12月8日掲載 <7>  

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