「ケータイ」症候群

      顔みて話すのが怖い

 「顔を見て話すのが怖い」生徒がいる。その理由を彼女は知らない。学校では無口なその子が校門を出ると、とたんにおしゃべりになる。携帯電話を握り締め、別人のように明るい。押さえていた思いを「ケータイ」に託すように、とりとめなくしゃべり続けている。
 今の生徒たちの多くが、自分の周りの人間に関心を持たない。あるいは持てない。仲良く話している相手がだれなのかすら、よく知らないでいるし、クラスメートが何日欠席していても気付かない、あるいは気にならないのが、ふつうの光景になりつつある。お互いが『ただの風景』になっているようだ。
 「顔を見て話すのが怖い」は、互いに相手の顔の表情を計りきれない不安からきているのだろうか。「ケータイ」はそんな不安を忘れさせ、楽にコミュニケーションできる場を子供たちに与えている。
 「顔は心の窓」というが、「ケータイ」での会話は心が見えにくい。その見えにくいところが子供の心をつかんでいるとしたら、「ケータイ」は、恐ろしいものだ。人の顔が見えてこそ、他人の悲しさや痛さ、そして喜びが自分のものになる。そんな人間らしさから、「ケータイ」は子供を遠くへ連れて行ってしまいそうだ。
 団欒(だんらん)のない家庭が増えている、と言われている。夕食の食卓を囲みながら、「これ、おいしいね」などと交わす何気ない会話や、近所で起こっていること、社会のニュース、友人、親せきの話題、巡りゆく季節の話が、なされなくなっている。子供は家庭での会話から、してはならないこと(倫理観)や、ルールを学んで来た。家庭の中で教えられることは、たくさんあるのだ。しかし現代の親は、ベターな生活のために、忙しい。子供は勉強のために塾に行く。あるいは刺激を求めて街に、外に出て行く。食事も別々に取るようなスタイルが、抵抗もなくどの家庭にも浸透している。「子供は親の顔を見て育たない」が、悲しいことに定着しつつある。「ケータイ」でしゃべり続けている子を見ると、きっと彼らは、家庭が失ってしまった「団欒」や「家族の顔」を求めているのだ、と皮肉でなく思えて仕方がない。
 家族関係が希薄であればあるほど、携帯電話は子供たちを支え続けるだろう。そして「顔を見て話すのが怖い」子供たちは、増え続けてゆくだろう。そういう子供たちが、日本の未来を支えるのだ。
 今、私たちにできることは、子供たちに「ケータイ」を使わせず、人の息遣いが分かる、「顔の見える団欒」を回復することではないか。その一歩をあゆむ勇気を。

2001年11月10日掲載 <4>  

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